藁にもすがる思いで、かあ。私は綱になりたい。
松谷です。
いつもありがたいお問い合わせて頂くなかで、たまにこのようにいって頂くことがあります。
「うちの落ちこぼれの子供を救って欲しくて『藁にもすがる思いで』連絡しました。」
この言葉を聞くと僕は結構アンビバレントambivalentな状態になります。相反する感情の共存というやつですね。
ひとつは、大事な子供をなんとかしてくれるかもしれない可能性を持つ場所として声をかけてくださったことに対してありがたいという感情。
もうひとつは、うちの塾もしくは僕そのものが『藁』と表現されることに対して多少のざわつく感情です。そしてこれはさらに突っ込むと、その言葉がこちら側にざわつきを起こすとさえ思っていないだろう保護者様側の感情に思いを馳せたときの諦観の気持ちも含みます。
あらゆる問い合わせ自体は本当にありがたいと思っています。
でももしかしたら子供を預けるかもしれないところに対して藁って表現しますかね?そんなもんなのかな?
藁って「細くてゴミみたいなもの」の比喩ですよね?うちはそんなものでも頼らなければいけないほど切羽詰まっている状態なんです。なんとかできますか?っていう風に聞こえるんですよね。もちろんただの慣用句であることは分かっているんですけどね。
もちろん〇台さんとか〇合さんとか〇進さんとか〇緑さんとか研〇さんとかに比べて本当に小さい存在ですが、それでも生徒一人一人はそれ以上くらい一生懸命見ているつもりですどねえ。まあでもそれがうちの塾の現在の立ち位置なんだと思います。少なくともその問い合わせた人から見える景色では。だから実際は何とも思わず使ってらっしゃるんだと思います。
それを受け止めながらも、精進していこうと思います。
そして、僕個人の気持ちとしては、藁ではなくて頼みの綱になりたいんですよね。
藁もいっぱい編んでいったら太い綱になるんじゃないかと思うんです。
今はまだまだ藁のようにか細い存在だとしても、一人一人への指導や一人一人の実績、指導側の向上それら小さな要素を重ねまくって、太い綱になること目指したいなと思います。
あっ、あとこれは別に何も感情がざわつくわけではないんですが、「落ちこぼれなんですけど」、という問い合わせに対してひとついっておいた方がいいことがあります。
それは、落ちこぼれから1年やそこらの勉強で現役の間に東大京大医学部レベルに上がるのは不可能ではないですが思ったより難しいということです。
僕は何らかの理由でこれまでは落ちこぼれていたとしても、東大京大医学部など高い目標があって、モチベーションがあってここからはあらゆる手段を講じてやることをやると決心しているというような子に対しては、なんとか手を考えて、必死にサポートしてきたかなと。実際、進学校での最下位近くから、ぐっと上がってある程度そのレベルで戦えるようになった子も何人かいるかなと思います。でも基本的にはうちの塾の目標から考えると、メインとして落ちこぼれを救うための塾ではないかなと思います。たまにいるそういう子がファイトして奇跡を起こすのは応援していますし、見ていて嬉しいですが。
ちなみに落ちこぼれていてやる気もない人はうちの塾は受け付けないことにしています。そのタイミングでは決して上手く行かないのがわかっているのでね。
今日のブログを読ませていただき、冷や汗をかきました。
私もあまり意識せず知らずに使っていたかも・・・。
これは頼み事をする時に使うと失礼になることわざだそうですね。
先生のバイタリティと指導への情熱と努力を知って子供を入塾させて頂いたので、これからも綱で居てください!
失礼になることわざなんですね。いや一般的に全然それが失礼かどうかは考えたことなかったんですが、
いざ言われてみると、何かいろんな感情を呼び起こさせることわざだなと感じましたね。
別に言われた方に悪気がそこまであったわけではないと思うのはなんとなくわかりますけどね!
まあ人によって気になるポイントは違うということなんだと思います!
こちらとしては精進するだけですね!!