国語の成績と数学の成績が無相関な人も結構いる。
松谷です。
数学と国語(特に現代文)って論理を対象とする学問なので、ある意味似ていると言われます。
自然言語である日本語というある程度の揺れが許容されたものを用いて表現される筆者の主張を論理を用いて読み解いていく現代文。
数式という人工言語による論理そのものが問われる数学。
それだけ似ていると言われる数学と現代文ですが、相関がある人もいれば、相関がない人も結構います。
実際に生徒でも、数学がめちゃくちゃ得意だけど国語の点数はそこまでいいわけじゃない人、
数学はとても苦手意識があるけど、国語の出来はものすごい人、
その両方がいます。
例えば共通テストをとってみたとき、数学も国語も時間のタイトさでは、二大科目なのかなと思います。しかし、国語は結構しっかり余裕をもって読み終わり高得点なのに数学は量が多くて無理です、みたいな人もいます。
一応、理論的には国語の現代文の出題というのは、特に共通テストに関しては満点がとれるようになってると思います(共通テストだけかもですが)。つまり、客観性が担保されているということです。なぜなら、もし客観性を担保しないまま全国に答えとともにテストが公開されてしまったとすると、それは徹底的に検証されもし悪問なら採点対象外となり全国からバッシングを受けてしまうからですね。そんなの出題者からしたら絶対許し難い恥辱であるため、客観的証拠による100%の理論武装を行うはずだからですね。つまり、正解の選択肢はめちゃくちゃ正解で、間違いの選択肢はめちゃくちゃ間違いだということです。
しかしながら、上記のような相関がない生徒が現れるような理由はなんでしょうかね。
一つは、国語の出題者が国語の常識を備えた有識者からみたら、その読み方しかできないというようなことをもとに正解を組み立てるわけですが、その常識が普通の読書のときの常識とずれている面があるのかなと。
そこの常識に習熟していないもしくは知らない生徒はたとえものすごく優秀でも失敗する場合があるわけですね。(実際に京大医学部とかの首席近い人でも200点中150点くらいしかとれてないとかの例はちょこちょこあるかなと)
あと、そもそも現代文における出題者という異端者の存在が特殊なのかなともたまに思います。普段の文章を読むということは、作者と、読者だけのやり取りですが、そこに出題者というのが急に介在してきます。しかも、作者がその出題者が作った問題を解いて全然解けなかったなんていう例は枚挙にいとまがありませんからね。その出題者という存在を解く側が許容できるリテラシーを備えたときに、数学と現代文の成績は相関するのかもしれないなと。
そんな戯言を言ってみました。新年なのでまあそんな感じですね〜。
国語に泣いて欲しくないなというのをふと思いましてね。
相関とは複数人のデータから計算される統計量なので、ある特定個人として二つの成績の関係が弱い事については、記事のような表現は避けたほうがいいです。
多くのデータから国語の成績と算数(数学)の成績には正の相関があることが様々な研究で明らかになっています。
この文脈ではある少数の集団が例外となっていても何ら問題ありませんからね。
確かにそうですね!数学が良くても国語がそこまでよくないというような人も結構いると言いたかっただけでした!
時折、陰謀論的に「国語と算数の成績には実は相関が無かった」などという言説も出てきますが、他の方の指摘にもあるように、日本だけでなく多くの地域で両者の成績には正の相関がみられます。
両者の能力が比較的エレメンタリーな教育の時期で関連しているのは、国語の基礎としてのスキルに「係り受け解析」と「照応解決」があるからだと考えられています。
これらは「文構造の正確な理解」に必須のもので、これがままならなければ数学も理科も外のどの教科も躓きます。
低学年ほど相関が強くみられるのは国語教育が知識のストックよりもこれらの基礎的なスキル育成にコストを割いている時期だからでしょう。
そして、漢字などの語彙力はその後の国語では重要であっても算数では必ずしも必須ではありません。(だから途中から相関が弱まったり極端なサンプルが出現し始める)
数学ではマルチモーダルな文書を読み解く能力である「イメージ同定」も重要で、他の教科でも文意理解・文脈や状況の把握に関わる「推論」の能力も伸ばさねばなりません。
しかしこれらのスキルの前提となるのが「係り受け解析」と「照応解決」のスキルなのです。
助詞や接続詞の使い分けや代名詞の指す対象を読みとれないままでは、文書から推論する事すら困難なのです。