凡人ができるようになることを夢みたがためにすべての発想に理由づけを持った。

松谷です。

僕は自分のことを凡人だなと認識しています。(アイキャッチ画像は、おおきぼんど、ですが!僕は多分これには似てないと思います?!)

もちろん、人それぞれ凡人の定義も違いますが、要は大したことないと思ってるというわけです。

それでも、数学を教えるようになりたいなら、東大京大レベルの問題なら基本的に十年に一度くらいの鬼畜捨て問以外は解けるようになりたい、ならないと話にならないと思うわけですね。(少なくとも時間をかけたとしたら。)

そうすると、凡人にはなかなかつらいわけですね。

でも、いろいろと経験をさせてもらって、それに近いレベルになってきたわけですが、数学がすごくできたわけではないので、凡人でも思いつくという視点を今教える際にも大事にしています。

その発想をする理由。

思いつきやすくするためにもつべき知識。

このあたりを、これまですべての問題に対して考えてきたかもしれません。

すごくささいなことにまで理由を考えざるを得なかった凡人力が、講師としても生きてるのかなと感じます。

 

それでも、人によって感じることは違います。だから、その生徒が疑問に思った些細なことを面白がりながら一緒に考えられる自分でありたいなと。

でも、そういう凡人的なことでもずっと続けていると、実は世間一般からすると凡人からはほど遠い状態まで到達してしまえるとも考えています。

そして凡人的な内容でも、冴えている人が受けとるとまた違う受け取り方をして化学変化も生まれるだろうなと感じています。

実際、凡人的思考で発想に理由付けを持ったとしても、すべての理由付けをひとつひとつ段階を踏んで解いていくことはかなり時間がかかるものでもあります。やってみたらわかるのですが、それだけだと解けるんですが、試験時間にもぎりぎりになってしまうかなと。特に満点とか狙いにいくと難しくなります。普通は満点狙わないでもいいんですけれどね。

でも、それが自分の中で消化されだすと、演繹的に積み重ねていくだけじゃなくて、なんとなくこうだったらいいなというような結論が見えつつのそこに迫っていくようなことも出てきます。また、凡人的な思考だとしても処理能力が高まりまくっている人がやるとそれも異常な発想力に見えたりもします。

そんな生徒たちも多少見たりしてきて、凡人なりに幸せです笑

 

でも、凡人って普通の人ってことなんですね。

実は、みんなが自分の環境のなかでは普通の人なんですね。だから、僕は凡人ですということは、そら当たり前なんですよね。自分の視点から見たらそりゃー自分は普通ですわ。自分中心なんだから。

むしろ、そういう考えは、自分の環境にいないような人を異常な状態と認識してしまうわけですね。これもある意味危険思想ではありますよね。

個別指導塾の教室長時代に、そんなことをいっぱい経験しました。オール1の子をいっぱい見て最初は驚きしかありませんでした。自分の周りの、東大か京大か医学部どれにする?という環境と比べるとものすごいギャップすぎました。でも、何が普通かっていうと、やっぱりオール3ちょっとくらいが普通で、自分の環境やオール1の人とかが標準からは逸脱してるわけですね。

 

でも、前の塾は本当に全員の生徒に門戸を広げてました。先生にはものすごい負担だったと思いますが、世間的にはすごくありがたい存在なんだと思います。一方、稲荷塾や、まつたに数学塾はもう少し狭いターゲットを狙っています。でもこれはこれで最大の利益を与えられるところに集中してサービスを提供するということですからどちらが良いということではないと思います。

前者は超大手の資金力と講師数、教室数を生かした戦略ですし、後者は弱者の戦略ですからね。

 

まあ、本当はオール1から東大理三志望まで全レベルの生徒を引き受けられる自分でありたいんですけどね。自分が精神的にも肉体的にも疲弊して壊れてサービスを提供できなくなるとしたら本末転倒ですからね。

 

まとまりがなくなってきたので、このへんで。。。

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